前回の記事で触れた旅行中にこれ↓と、
これ↓と、
これ↓の
計3つの大王関連展に行きました。
先二つはパンフレットが欲しかったのですが、買ったらその場で倒れる重さだったので諦めました。
サンスーシーのなんて2冊もあるんですよ。
腕が引き千切れんばかりの重さになるのですよ。
商売熱心な新宮殿売店の兄ちゃんが「2冊セットなら特別割引だよ!普通の本屋でもこのパンフレットは買えるけど、割引は会場のここだけだよ!」と熱心に口説いてきましたが「amazooooon!」と叫んで断りました。
身内より「前回の記事、写真の解説が無いから分からん」と言われましたが、書くととても大変な長さになっちゃうのでそのうち別記事で触れるのを待っていてください。
と言いつつ続きの記事を書かなかったり、忘れるのが私なので、今書ける一つをご紹介。
こちらはプラハの
聖ツィリル・メトデイ正教大聖堂の壁です。
旅の同行者であったコアラが「ナチのリディツェ村大虐殺の例の教会がある!」と教えてくれ、地図を片手に引っ張って行ってくれました。
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1942年ナチ支配下のチェコで、チェコ亡命政府(inイギリス)兵士による
ナチのチェコトップ暗殺事件がありました。これに対し血の報復を決意したナチスはその暗殺にリディツェ村が関与していると決定し、一つの村を壊滅させました。村にいた15才以上の男性は全て銃殺され、残った女子供も強制収容所へ送られほぼ死亡。数名の村人は不在にしていたのですが、それも最終的には見つけ出され同様の行いをされました。
しかし、リディツェ村はこの暗殺計画と無関係だったと言われています(ナチはまともな証拠も無く虐殺を行いました。村の規模が報復を見せつけるためにちょうどよかったのではないかと考えられています。)。
この暗殺事件に本当に関与していた実行部隊の7名が匿われていたのがこの教会の地下でした。
彼らの潜伏先は最終的にナチを恐れた仲間の密告によって知られることとなり、SSに教会は取り囲まれ、銃撃戦の上3名が死亡。4名は自殺しました。
今この教会の地下には小さな展示室があり、ナチのチェコ支配〜暗殺〜リディツェ村〜部隊の最期までが詳しく解説されています。
そして展示室の奥にある扉を抜けると、彼らが過ごし、4名が自殺した地下室があります。
銃弾の痕、おそらくは血痕であろう黒いシミ、そして彼らの亡骸の写真。
言葉をなくす空間です。
これをやれる残虐性を持ったのも、止められる理性を持ち得るのも我々なのです。
だから目に焼き付けなければと思うのです。
有名な言葉ですが「歴史は繰り返され」ます。
出来事が勝手に繰り返されるのではないのです。人間が生きて、生まれ、世代が交代する折に先人の行いを忘れ繰り返すのだと私は思います。
文明社会は1000年前に比べ信じられない程進歩しましたが、根本的な人間の欲なんざ大して変わりません。
中世史や古代史の発表を聞いていても、「なるほどその時代でも考え方は一緒か」と思います。
持っているツール、思想の積み重ねが違うから異なるように見えるだけです。
でも人は欲をコントロールするすべをちょっとづつ学んでいます(それこそ積み重ねの成果です!)。
我々が「これは悲しく辛いことだ」と書き残せば、後の世代はそれを躊躇できます。
記録の無い経験は受け継がれないでしょう。
だから歴史は残されねばならぬし、学ばねばならないのだと思うのです。
各地にある強制収容所やこういった場所は出来るだけ見て回りたいと思っていますが、何度雰囲気に当てられも慣れません。でも行くのです。眼に焼くのです。
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チェコの亡命政府兵士はイギリス軍に軍事訓練をつけられていました。
これは後にアメリカが随分と似たことをしていたな。
そして随分と違う結果に至ったものなのだな、と私素人は素直に思うのでした。
ま、繰り返したというより軍事戦略の常套手段なのでしょうがね!
<ドイツ時間、8/17午前0:45頃追記>
たった今コアラよりメールあり。
今日は大王の命日だそうです。
いやー。本当によく知っているな。
旅行中に何度も聞かされてたのに、私もう忘れていたよ!
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